2008.03.18 (Tue)
中国茶Cafe 緑苑直営茶藝館「茗香閣」
香水が付いている人はNG・・・うひょ~厳しいっっ!(笑)
当然!禁煙です・・・これは期待
1人1つずつ注文。1つ1000円以上しますが、中国茶はお茶を入れ足して、いくらでも飲めちゃうので、そんなに割高ではないと思います。茶器も楽しめるし、香りももちろん楽しめます!
オイラが注文した「花茗」↓
ほのかに甘いけど、しつこくないカンジです。
「岩茶」の中はお花が見えます。
「女児環」↓
解説書によると「指輪のような形に丸められた可愛らしい茶葉です。」とのこと
「凍頂烏龍」↓
最近ペットボトル飲料でもあるくらい、注目の烏龍茶ですね
1階で茶器を売っていました・・・。中国茶を入れたら、オシャレですね・・・。
お店にあったパンフより。<拡大をして見てくださいねぇ>
中国茶の知識の勉強(?)紅茶も中国茶の一種みたい。個人的には「花茶」が見た目も楽しめるし、好きかも??
2008.03.18 (Tue)
横浜中華街「菜香」市場通り店
中華街ってバイキングや食べ放題が多いですね~~~。 そんなに量を食べられないので、お店のチョイスが難しいです・・・。
大通りから少し入ったところに、ママと小学生のころ、昔よく行ったお店があって「ここよく行ったわぁ~」って言ったら、そこに決まっちゃいました・・・。こんなカンジで決まってよかったのかな??
『菜香』市場通り店です。
オイラのじゃないけど・・・(笑)
店内では焼き豚さんがつるされていました。
その焼き豚さん、注文しました。
ショウロンポウ大好きです
しょうゆをかけて食べるお魚料理・・・まぜまぜするんです。
マゼマゼをしている様子。
ここからはデザートです。
あまり脂っこくなくて、大阪疲れでも十分食べられました!!!
2008.03.14 (Fri)
3月の関西 奈良『唐招提寺』編
ここで最後、法隆寺から奈良交通バス
で唐招提寺へ。
http://www.toshodaiji.jp/index.html
ここは子供の時にも行きましたが、時間の関係で全部見ることが出来なかったお寺です
ここで拝観料を払って中に入ります。拝観料600円。拝観料を払うときに「金堂修理しているからね~」って言われてしまいました思わず「マジすか・・・」って言ってしまうオイラもどぉかと思うけど・・・。(修理しているのは外からも見られます)唐招提寺は観光バスもいなくて、ひっそりとした雰囲気。あまり人がいませんでした。雨が降っているせいもあるかも?

ここは奈良市五条町。奈良の郊外といった感じだが、都が奈良にあった1200年前は、平城京右京五条二坊にあたり、いわば首都の中心街であった。西紀759年(天平宝字3年)天武天皇の皇子新田部親王の旧邸地を賜ってここに唐招提寺が創建された。唐の国から来朝した鑑真和上の招提-み仏のもとに修行する人たちの場という意味を寺名として掲げる。別に建初律寺とも称するが、これは中国四分律の南山宗による戒律を軸として教学に励むわが国最初の律寺ということである。今も日本律宗総本山として仰がれている。
開山唐僧鑑真和上(過海大師)は大唐国揚州大明寺の高僧、さが聖武天皇の寵招に応え、授戒の師として来朝することになったが、754年(天平勝宝6年)東大寺に到着するまで12年間、前後5回に及ぶ難航海に失敗したにも拘らず、初志を曲げず、奈良の都に着いた時は両眼を失明していたほどである。かくて大仏殿の前に戒壇を設け、聖武・孝謙両帝をはじめ、わが国の多くの高僧たちに授戒した。すでに仏教国家の形態を整えていたわが国が、画竜点睛の実を挙げたのは、まさに大和上の功績である。このことは中学校の教科書にも出ている実績だが、ひとり仏教史の上だけでなく、ひろく天平文化に及ぼした影響は測り知れざるものがある。まことに日本の大功労者であった。
<後略>パンフより

残念ながら金堂が修理中・・・こんな姿に・・・

わが国現存最大の天平建築であり、天平金堂唯一の遺構として君臨するもの。その豊かな美しさ、「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思へ」(会津八一)と詠わしめた大円柱の放列は遠くギリシャの神殿を想起させよう。本尊乾漆盧舎那仏、薬師如来、千手観音、梵釈二天、四天王など創建以来の天平のみ仏います内陣の厳粛さは、そこに盲いた大徳鑑真和上が今も礼拝瞑想中かと、われらも粛然たらざるを得ない。圧倒されそうな強烈な芸術性の発揮である。



金堂の前の通路の脇にあった、看板はなんとか文字を読むことが出来ます。

戒壇は石造三段の豪壮なもので、和上が東大寺に創めた戒壇院の土造のそれとしばしば対比されるのである。こちらは江戸末期の祝融に禍されて外構を失ったが、雨露に堪えて粛然たる厳格さはひしひしとわれらに迫り、おのずから襟を正さしめるであろう。このたび最上層にインド・サンチーを模した古塔を奉安し、周辺も整備して授戒場としての面目を一新した。



戒壇は、中に入れませんが、柵越しに見ることが出来ます。
戒壇から横を見ると、講堂が見えます。(本来は正面から見られるはずなのに、工事の関係で横からしか撮れませんでした)

金堂のうしろに続く講堂は、奈良仏教の上代寺院がいずれも学問寺の性格を濃厚にしていた関係上、講筵聴問の場であったが、この建物は和上の創立に際して特に宮廷から平城宮の東朝集殿を賜って移築したものであることに注目したい。平城宮跡百ヘクタールは今は一屋すら留めぬ草原と化したが、幸いに一棟ここに移築されたればこそ、もって当時の宮殿の方鱗をうかがうことができるのである。その遺重性はただ天平建築たるだけもおでない。堂内には本尊弥勒如来(鎌倉時代)、持国。増長二天(ともに奈良時代)を安置する。
パンフより

講堂の中には、説明の方がいたのですが、時間が読めなかったのとメモも持っていなかったので(全然観光客がいなかったし)頼まずに出てきてしまいました。かなりたくさんの仏像があったのですが、説明してもらえばよかったなオイラみたいなわからない子でも説明してくれるのかな・・・?
講堂を出たところに、芭蕉句碑があります。

さて、鑑真和上の御廟の西、境内のただずまいひとしお清寂ななかに宏大な殿宇が望まれるであろう。南都興福寺旧一乗院門跡の宮殿遺構を精密に復原移築された古建築で、平安貴族の邸宅とその生活様式をうかがうべき好箇の資料として希少価値きわめて高い。今では大和上の尊像を安置する御影堂とし、一山後学あげて宗祖のいますがごとくお仕え申している。和上の尊像は前述の如く6月6日開山忌当日を中心に(5日-7日)開扉される。
パンフより

6月5日~7日の間なら鑑真和上の像が見られるのかな???
さらに進んでいくと、『鑑真和上御廟』があります。こんな古い壁の道を通っていきます。壁の中に瓦のようなものが挟まっています。

やっとここに来ることが出来ましたっっ!!!ここに鑑真和上は眠っています・・・。
新宝蔵は別料金(100円)になります。今回は竹林寺忍性菩薩墓出土品などが展示されていました。発掘された仏像などなので、腕がなくなっていたりする不完全なものでしたが、仏像は実は、いくつかの木が組み合わさって作られているなど、構造がよく分かったような気がします。木造の仏像ばかりでした。
金堂の修理中なので、金堂の鴟尾(しび-名古屋城で言う金のしゃちほこみたいな部分)が展示されていました。東方が鎌倉時代、西方はなんと奈良時代のものです。間近に見ることが出来たのですが、奈良時代のものが残っているのは感動です。
新宝蔵のあたりでかなりどしゃぶりになってしまったので(このあと近鉄線の西ノ京駅まで歩く予定)あとは駆け足で・・・

東の2つの校倉。南が経蔵、北が宝蔵となっている。ともに遺存少ない天平校倉で、殊に経蔵はこの寺創始以前、新田部親王の邸宅があったころの遺構だから、756年成立の正倉院宝庫よりさらに古く、わが国現存最古の校倉として記憶されるべきである。
パンフより

・・・・宝蔵しか写真を撮っていません・・・。経蔵の方が大事だったんだ~~あわわわ遠目に撮ったのはあるんだけど・・・。
最後が駆け足になってしまったけど、唐招提寺を南大門から出て、目の前にあったポスト

2008.03.14 (Fri)
3月の関西 奈良『法隆寺』『中宮寺』編
京都と別の日なので、雨天
になっちゃいました
歴史(日本史)の試験に出る、法隆寺です。
観光ツアーではなかなか見ませんね・・・・。JR法隆寺駅の屋根は
法隆寺をイメージした瓦屋根になっています。
本来はバスで行くらしいんですけど、よく分からず歩いてしまいました・・・。(反対側がバス乗り場だったらしい)
法隆寺の入り口です。
本当は松並木の中を歩きたかったけど、雨天で断念・・・。歩いていくと
かなり色が薄れていて、肉眼でも読みにくいカンジでした(読んでいない(爆))

法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。その創建の由来は「金堂(こんどう)」の東の間に安置されている「薬師如来像(やくしにょらいぞう)」の光背銘(こうはいめい)や『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳(ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』(747)の縁起文(えんぎもん)によって知ることができます。
それによりますと用明天皇(ようめいてんのう)が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を作ることを誓願されましたが、その実現をみないままに崩御されたといいます。そこで推古天皇(すいこてんのう)と聖徳太子(しょうとくたいし)が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれています)であると伝えています。
現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍(さいいんがらん)と、夢殿を中心とした東院伽藍(とういんがらん)に分けられています。広さ約18万7千平方メートルの境内には、飛鳥時代を始めとする各時代の粋を集めた建造物が軒をつらね、たくさんの宝物類が伝来しています。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件、点数にして2300余点に及んでいます。
このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶかがやかしい伝統を今に誇り、とくに1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています。
パンフより

歩いていくと、南大門が見えてきます。何とか雨があがってきました
ここではまだ、観光バスが見当たりませんでした。違うところから入ってしまうのかも?全然人がいなくて(雨だからかな?)うまく写真が撮れました

南大門<なんだいもん>(室町時代)
法隆寺の玄関にあたるこの門は永享10年(1438)に再建されたものです。パンフより

南大門のところに告知が・・・
現在、金堂が工事中で、金堂にある釈迦三尊像は上御堂に安置しているとの旨が書かれていました。
法隆寺の伽藍配置図です。法隆寺、かなり広いから、今回は3時間ちょいくらいでしたけど、全然まわり切れません・・・。西円堂を今回、いきそびれてしまいました
南大門をくぐっていくと、中門が見えてきます。後ろに五重塔も見えます。

中門<ちゅうもん>及び廻廊<かいろう>(飛鳥時代)
深く覆いかぶさった軒、その下の組物や勾欄(こうらん)、それを支えるエンタシスの柱、いずれも飛鳥建築の粋を集めたものです。重厚な扉と左右に立つ塑像(そぞう)の金剛力士像(こんごうりきしぞう-飛鳥時代)は、東西にのびた廻廊の連子窓(れんしまど)と対照的な組み合わせで、並列して建つ塔と金堂を壮麗に包み込んでいます。
パンフより

中門の隣には「日本最初の世界遺産」の碑が立っていました。
ここから拝観料を払って、中に入っていきます。
まず、最初に見えるのが五重塔。

五重塔<ごじゅうのとう>(飛鳥時代)
塔はストゥーバともいわれ、釈尊(しゃくそん)の遺骨を奉安するためのものであり、仏教寺院において最も重要な建物とされています。高さは31.5メートル(基壇(きだん)上より)で、わが国最古の五重塔として知られています。
この最下層の内陣には、奈良時代のはじめに作られた塑像群があり、東面は維摩居士(ゆいまこじ)と文殊菩薩(もんじゅぼさつ)が問答、北面は釈尊が入滅(にゅうめつ)、西面は釈尊遺骨(舎利-しゃり-)の分割、南面は弥勒菩薩(みろくぼさつ)の説法などの場面が表現されています。
パンフより

法隆寺の五重塔は外から見られるようになっています。五重塔の中は、東寺 とは異なり、石の中に仏像が彫られているといった雰囲気でした。ちゃんと意味がパンフに書いてあったんですね現場でよく読めばよかった・・・
次は隣の金堂に行きますが・・・金堂は工事中なので、閉められていました。でも、工事と言っても、囲われてしまっているワケではないので、外観を確認することが出来ます。でも、やっぱり中も見てみたかったですね・・・。残念

金堂<こんどう>(飛鳥時代)
法隆寺のご本尊を安置する聖なる殿堂が金堂です。威風堂々としたこの建物の中には、聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(こんどうしゃかさんぞんぞう-飛鳥時代-)、太子の父君用明天皇のために造られた金銅薬師如来坐像(こんどうやくしにょらいざぞう-飛鳥時代-)、母君穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)のために造られた金銅阿弥陀如来坐像(こんどうあみだにょらいざぞう-鎌倉時代-)、それを守護するように、樟(くす)で造られたわが国最古の四天王像(してんのうぞう-白鳳時代-)が、邪鬼(じゃき)の背に静かに立っています。そのほか木造吉祥天立像(きちじょうてんりゅうぞう)・毘沙門天立像(びしゃもんてんりつぞう-平安時代)が安置されています。
また天井には、天人(てんにん)と鳳凰(ほうおう)が飛び交う西域色豊かな天蓋(てんがい)が吊るされ、周囲の壁面には、世界的に有名な壁画(昭和24年焼損、現在はパネルに画かれた再現壁画がはめ込まれています)が描かれ、創建当初の美しさが偲ばれます。パンフより



大講堂<だいこうどう>(平安時代)
このお堂は仏教の学問を研鑽(けんさん)したり、法要を行う施設として建立されましたが、鐘楼(しょうろう)とともに延長3年(925)に落雷によって焼失しました。幸い正暦元年(990)には再建され、ご本尊の薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)及び四天王像もその時に作られています。
パンフより


鐘楼<しょうろう>(平安時代)
この鐘楼の中に吊るされている白鳳時代の梵鐘(ぼんしょう)は、今なお当時の音色を響かせています。
パンフより

金堂が工事中なので、金銅釈迦三尊像が安置されている上御堂へ。
目の前の階段を掃除している方がいると思いますが、法隆寺ではこういうおじさんに必ず「よく見ていってね~来てくれてありがとう~」って言われました渋谷行く格好で法隆寺行っちゃったんですけど、やっぱり周りはお年寄りの団体・・・たまに学生の卒業旅行っぽい人もいましたが・・・目立つんですかねぇ
金銅釈迦三尊像、そんなに大きくないんですけど、今の仏像とは違って顔も細いし、見ごたえありました!『大講堂』の仏像を「ここはそんな大したことがない、こっち(金銅釈迦三尊像)がすごいんだから!!」って言っている、観光タクシーの運転手さんもいました(爆)

上御堂<かみのみどう>(鎌倉時代)
このお堂は奈良時代、天武天皇(てんむてんのう)の皇子である舎人親王(とねりしんのう)の発願によって建立されたと伝えられていますが、現在の建物は鎌倉時代に再建されたものです。その堂内には平安時代の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)と室町時代の四天王像が安置されています。
パンフより

上御堂を出て、もう一度西院伽藍へ
今度はさっきよりも詳しく見てみました
そろそろ西院伽藍を出て、聖霊院へ。
御朱印帳を持っている人はここで書いてもらいます。ここには有名な聖徳太子の像が安置されているのですが、扉が閉じられて、見られなくなっていました。すぐ横に写真があり、それで確認すると言ったカンジですね

聖霊院<しょうりょういん>(鎌倉時代)
東西の廻廊(かいろう)の外側には、それぞれ東室(ひがしむろ)・西室(にしむろ)と言う南北に細長い建物があります。それらは僧侶の住居でありましたから僧房(そうぼう)と呼んでいます。とくに鎌倉時代の聖徳太子信仰の高揚にともなって、聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために、東室の南端部を改造したのがこの聖霊院です。
パンフより

聖霊院をでたあとは、『大宝蔵院』へ行きます。ここは最近出来たところみたいで、オイラが子供の頃に行った時はなかったみたいです。大宝蔵院入り口でこんなものが
これは厩戸皇子(聖徳太子)とお馬さんのよぉな???特別、解説もなくて、なんだかよく分かりませんが、古そうですね・・・・。

大宝蔵院<だいほうぞういん>
聖霊院から東に進むと宝物庫である綱封蔵(こうふうぞう-平安時代-)があります。その手前を北に進むと、食堂(じきどう-奈良時代-)や細殿(ほそどの-鎌倉時代-)などの建物の奥に新しい伽藍が見えてきます。ここが平成10年に落成した百済観音堂(くだらかんのんどう)を中心とする大宝蔵院です。建物の内部には、有名な夢違観音像(ゆめちがいかんのんぞう-白鳳時代-)・推古天皇御所持の仏殿と伝える玉虫厨子(たまむしのずし-飛鳥時代-)・蓮池の上に座す金堂阿弥陀三尊像(こんどうあみださんぞんぞう)を本尊とする橘夫人厨子(たちばなぶにんのずし-白鳳時代-)をはじめ百万塔(ひゃくまんとう)・中国から伝えられた白壇作りの九面観音像(くめんかんのんぞう)・天人の描かれた金堂小壁画(こんどうしょうへきが)など、わが国を代表する宝物類を多数安置しています。飛鳥時代から近世に至るこれらの宝物は、1400年に及ぶ宝竜寺の信仰の遺産であり、法隆寺の歩んだ道のりをうかがわせる貴重な宝物と言えましょう。
パンフより

建物自体は新しいのでどぉでもいいんですけど(笑)中の宝物は本当にすごいです。ちょっとした古美術館飛鳥時代の仏像は今と違う雰囲気だから、見ていて趣きがあるのだ・・・。法隆寺の拝観料って1000円もするけど、これだけの古代の仏像が見られるなら1000円でもいいかな~?って思わせてくれます。西院伽藍を回っているころ、観光ツアーの人の話が聞こえてきちゃったんだけど、おばちゃんが「玉虫厨子ってどこにあるんですか?」って聞いたら、バスガイドさん「わたしもぉ~来たの修学旅行以来だから、分からないんですぅぅ~」っておいっっ!ちなみに玉虫厨子はこの大宝蔵院にあります。教科書で見ると小さいイメージだけど、かなり大きいんだよ~~。
大宝蔵院を出て、いよいよ東院伽藍(夢殿)へ
拝観料はすべて共通です(でも、チケットを見せる必要があるよぉ~)夢殿は昔、お札に印刷されていたみたいだけど、オイラはそんな時代は知りません夢殿まで来ると、雨がかなりすごくなっていて、廻廊はほとんど見てこなかった
残念・・・。今度は晴れた時に行きたい(子供の頃行った時も雨だった
)

夢殿<ゆめどの>(奈良時代)
西暦601年に造営された斑鳩宮(いかるがみや)跡に、行信僧都(ぎょうしんそうず)という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院(じょうぐうおういん)といいます。その中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂(はちかくえんどう)の中央の厨子(ずし)には、聖徳太子等身の秘仏救世観音像(くぜかんのんぞう-飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(しょうかんのんぼさつぞう-平安時代-)、聖徳太子の孝養像(こうようぞう-鎌倉時代-)、乾漆の行信僧都像(ぎょうしんそうずぞう-奈良時代-)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師(どうせんりっし)の塑像(平安時代)なども安置しています。この夢殿は中門(ちゅうもん)を改造した礼堂(らいどう-鎌倉時代-)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身(けしん)と伝える聖徳太子を、供養するための殿堂としてふさわしい神秘的な雰囲気を漂わせています。
パンフより

ここで法隆寺は終了です。(見忘れた箇所もあったけど・・・)
法隆寺の隣に『中宮寺』があります。