2008.03.13 (Thu)
3月の関西 京都『東寺』編
京都駅から近鉄京都線
で東寺駅そこから徒歩で東寺へ。
東寺はOfficial HPがないみたいなので、京都府のHPで
http://www.pref.kyoto.jp/isan/kyouou.html
お天気が悪くなってきていたので、空の色がイマイチだけど・・・
東寺付近の信号から、東寺の大きな五重塔が見えました

でも、800pxに解像度を落としてしまうと(アメブロの画像フォルダは最大解像度が800px)、微妙に文字が読めないので日本語の説明だけ拡大します

東寺は真言宗(弘法大師)のお寺です。
弘法大師は、口で伝えるより絵で表したほうが分かりやすいと言ったらしく(?←オイラあまり詳しくないので違っているかもしれません)、仏様の姿を『曼荼羅(まんだら)』に表します。と、言うことで
今回は国宝の『五重塔』が特別拝観で内部まで見られるみたいです。
東寺は大きな庭園になっていて、池や梅の木がありました。その中にお寺があると言う雰囲気かな?

『講堂』 重要文化財・室町時代
東寺の創建時にはなかった講堂は、天長二年(825)弘法大師によって着工され、承和二年(835)頃には完成しました。その後台風や地震で大破し、度々修理を重ねてきましたが、文明十八年(1486)の土一揆による戦火で消失しました。現在の講堂は延徳三年(1491)に再興された建物で、旧基壇の上に建てられ、様式も純和様で優美な姿を保っています。
パンフより

講堂の中には有名な『立体曼荼羅』があります。ポスターにもなっていた曼荼羅の姿を仏像でリアルにあらわしたもので、東寺に来たら絶対見る価値があるたくさんの仏像です。
東寺に来る前、録画を頼まれてみていたNHK BShiでやっていた仏像の番組で立体曼荼羅を見たのですが、TVのアングルは斜め上からだったから、本当に曼荼羅っぽくまる~く囲っているように見えたんですけど、実際見ると、横からになってしまうためか、曼荼羅?って一瞬分かりませんでしたでも、仏像はとてもきらびやかで、すみずみまで見る価値があると思います。オイラは詳しくないけど、それなりに密教について勉強している人なら、個々の仏像が持つ意味も分かるんでしょぉね・・・。

講堂・立体曼荼羅
堂内の白亜の壇上には大日如来を中心とした五智如来をはじめ、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天の二十一鐘メの仏像が安置されています。これは弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅(蜜厳浄土の世界)です。六鐘メは後補像ですが、十五鐘メは平安時代前期を代表するわが国密教像の秀作です。
パンフより

講堂を出ると、今度はお隣の金堂へ
建物自体は講堂の方が古いみたいですけど、金堂は建物自体が国宝に指定されています。見た目も古いカンジ。

『金堂』 国宝・桃山時代
金堂は東寺一山の本堂で、延暦15年(796)創建されたと伝えられています。文明18年(1486)に焼失し、今の堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興されたもので、慶長8年(1603)に竣工しました。天竺様の構造法を用いた豪放雄大な気風のみなぎる桃山時代の代表的建築ですが、細部には唐・和風の技術も巧みに取り入れています。パンフより

金堂の中に入ると、大きな仏像が三体並んでいます。一番中央にはお坊さんがお経をあげるときに使用するものでしょうか?机のよぉなものが置かれていて、菊の花(花の部分のみ)がたくさん置かれていました。
中央の薬師如来は少々特殊で、台座に十二神将が彫られています。上の薬師如来を支えているよぉなイメージですね。

金堂・薬師三尊 十二神将
金堂本尊の薬師如来坐像と日光、月光の両脇侍菩薩です。光背上には七鐘メの化仏を配して七仏薬師をあらわし、台座の周囲には十二神将を配しています。これら三尊像は桃山時代の大仏師康正の作で密教的な薬師信仰の形をとどています。
パンフより

金堂を出るといよいよ五重塔へ。庭園の中を歩いていきます。京都の景色としてよく使われるあの五重塔です。
近くで見ると大きいですね五重塔は普段は内部を見ることが出来ません。正月の三が日だけ公開されているとのことです。が・・・今回は特別拝観実施中で中を見ることが出来ました。

『五重塔』 国宝・江戸時代
東寺の小党として広く親しまれている五重塔は、天長3年(826)弘法大師の創建着手にはじまりますが、しばしば災火をうけ、焼失すること4回におよんでいます。現在の塔は、寛永21年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した55mの、現存する日本の古塔最高の塔です。全体の形もよく、細部の組みものの手法は純和様を守っており、初重内部の彩色も落ち着いて、江戸時代初期の秀作です。
パンフより

せっかくなので、中に入っていきます
中には説明をしてくれるおばちゃんがいて、いろいろ内部の説明をしてくれました。東西南北にそれぞれ仏像が安置され、その周りを柱で囲われているイメージ。壁には真言密教に関する8人のお坊さんの絵が描かれていました。
おばちゃんの話を覚えている範囲で・・・。(中の撮影がNGだったので、ムービーとか撮れなかったんですよねぇ)
五重塔は5層になっていますが、仏像が安置されているのは一番下だけで、あとは木の骨組がひたすら続くんだとか・・・。地震が来ても倒れないように、遠心力が波打つようにかかる(?)ように設計されているらしいです。
壁画のお坊さんのイラストを指して、真言密教の誕生から 日本に弘法大師(空海)に伝わるまでを説明してくれました。
一番中央にある心柱は、木の伸縮によって、心柱がつきあげないように江戸時代に50cm切り下げたと説明してくれました。(仏像の下の扉が開かれ、心柱が見られるよぉになっていました)
中はかなり豪華なイラスト?模様?が描かれていて、昔はもっとキレイだったらしいです。柱にもイラストが描かれているんですが、なにやらスレてしまったよぉな跡が・・・(今でも少し残っているのに、普通に触れるようになってしまっていました)人が触ってしまったのか?って思ったら、明治初期の廃仏毀釈によって、五重塔を守るために削られてしまったそうです。中の仏像より、この柱に描かれた、イラストの方が価値があったものらしく、削られてしまったのを、説明のおばちゃんは嘆いていました。
イラストの中に、虎だったか龍だったか忘れてしまったんだけど、虎か龍のイラストは、災害予防のために「おまじない」として描かれていることを最後に説明してくれました。でも、今はおまじないだけじゃなくて、しっかりスプリンクラーも、つけてあると見せてくれました。本当に天井を良く見るとスプリンクラーが!!説明してもらわないと気が付かない・・・。
普段は中に入れないところなので、外に中がどのようになっているか書かれている看板がありました。
真言密教は、空海が始めたものだと思っていたら・・・違っていたんですねぇ。今回は通常のパンフに加え、五重塔のチラシもいただけました。(多分別になっていたから、普段は配っていないんでしょうね・・・)

国宝・五重塔-初層内部- 高さ55m 本瓦葺 江戸時代(寛永21年 1644)
空海が嵯峨天皇から東寺を勅賜されたとき、塔はまだ建っていなかった。空海は、天長3年(826)東山の材木を造営に充てることを願ったが、稲荷山の神木事件などがあり、容易に捗らなかった。ようやく元慶7年(883)に竣工したが、その後天喜3年(1055)焼亡、応徳3年(1086再建)、文永7年(1270)焼亡、永仁元年(1293)再建、永禄6年(1563)焼亡、文禄3年(1594)再建、寛永12年(1635)焼亡、寛永21年(1644)再建と四度の焼亡をへて、その都度再建され、現在は五代目の塔に当たる。都では唯一の高さでもあり、雷がおちやすかったことも考えられる。
内部は心柱を大日如来に見立て、その周囲の須弥檀(しゅみだん)に阿しゅく(あしゅく)如来、宝生(ほうしょう)如来、阿弥陀如来、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の金剛界四仏と八大菩薩を安置している。現在は剥落(はくらく)しているが、四天柱には金剛界曼荼羅諸尊が描かれている。外陣周りは、四方の扉の内面に護法八方天が、扉の左右の柱には八大龍王が描かれ、そして周囲の壁の上段に真言八祖像、下段には蓮池が描かれている。さらに天井には折上小組格(おりあげこぐみごう)天井とされ、長押(なげし)等にも全面にわたって極彩色の文様が装飾されている。パンフより

五重塔を出た後、庭園方面から金堂と講堂を池越しに見たカンジ
庭園のほうは梅が咲き始めていました。
ここからは境内を出て、食堂のほうへ・・・。拝観料不要なので、中を見ない人も見られるよぉになっています。
食堂は僧侶が食事をするところのよぉです。中にも入れるよぉになっています。中の仏像はかなり色鮮やかだったので、最近のものかもしれません。
食堂を出たあとは西院のほうへ・・・西院には、『大日堂』と『大師堂』があります。こちらも自由に中に入ることが出来ます。
講堂も金堂もおみやげ物(ポストカードなど)の売り場はあったものの、お店の番をする人がいませんでした。食堂には人がちゃんといるので、おみやげ物を買う場合は食堂へ・・・と、言ったカンジでしょぉか?

『大師堂』西院御影堂 国宝・室町時代
西院は伽藍の西北部にあり、弘法大師の住房で、大師の念持仏、国宝・不動明王像(秘仏)一鐘メが安置され不動堂ともよばれていました。康暦元年(1379)焼失しましたが、その翌年には再建され、さらに十年後の明徳元年(1390)には北側に、国宝・大師像を拝するための礼堂と廊を加え現在の姿となりました。堂内には不動明王と大師像が祀られ、弘法大師信仰となっている御堂です。入母屋造りの礼堂、切妻の中門、ゆるやかな勾配の総檜皮葺の屋根がその優美さを際立たせています。パンフより

西院を出て歩いていくと、お大師様の像(?)が・・・。遠目に見ただけですけど・・・。
最後に南大門のあたりから、金堂や五重塔を・・・。2008.03.13 (Thu)
3月の関西 京都『東本願寺』編
「南無阿弥陀仏の掛け軸あります」ってどんなのだろ???
もう少し歩くと怖いものが・・・

って思ったけど、東本願寺の回廊(って言うのかなぁ~~~?)が見えてきました
『東本願寺』 (真宗大谷派)です。

阿弥陀堂 1985(明治28)年再建
ご本尊阿弥陀如来を中心に、北脇壇(向かって右)には御影堂より御動座された宗祖親鸞聖人の御真影を安置し、南脇壇(向かって左)には本願寺第8代蓮如上人の御影をお掛けしています。また、親鸞聖人が「和国(日本の国)の教主」として仰がれた聖徳太子をはじめ、今を生きる私たちに、親鸞聖人に先だって真実の教えをいただかれ、本願念仏の教えを伝えてくださった方である七高僧の御影を、そして歴代門首の御影をおかけしています。
正面の高さ52m(29間)/側面の高さ47m(26間)/高さ29m(16間)/瓦数108,329枚、畳数401枚
パンフより

東本願寺の阿弥陀堂は撮影不可でした。たくさん掛け軸あったかなぁ???(ちょっと記憶が遠のいています)聖徳太子の掛け軸は西本願寺だけだと思っていたんですけど・・・。ちゃんとメモを取っておかないとダメですね
東本願寺の御影堂は完全に囲われちゃっていて、まったく見ることが出来ませんでした。

御影堂(ごえいどう) 1985(明治28)年再建
世界最大の木造建築で、宗祖親鸞聖人の御真影が安置されているところから、御影堂と呼んでいます。(親鸞聖人の御御影は、御影堂の御修復期間中は阿弥陀堂に安置されています)
2011年宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌に向け、現在修復工事が進められており、御影堂内には明治期の再建当時の様々な資料が展示されています。
正面の高さ76m(42間)/側面の高さ58m(32間)/高さ38m(21間)/瓦数175,967枚/畳数927枚/堂内の柱90本
パンフより


御影堂門 1911(明治44)年再建
京都三大門の一つで、楼上の正面には浄土真宗の聞法の根本道場であることをあらわす「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」の額が掲げられています。
楼上の堂内には、中央に釈迦如来、左に阿難尊者(あなんそんじゃ)、右に弥勒菩薩の三尊像が安置されています。これは、釈尊(お釈迦さま)が阿難尊者、弥勒菩薩に真宗の根本経典である『仏説無量寿経(ぶつせつむりょうじゅきょう)』(大無量寿経-だいむりょうじゅきょう-)をとかれたことをあらわしています。
この門から教えに入り、また、その門を出ることは、新たな人生の出発が始まることを意味しています。
正面の高さ31m(17間)/高さ27m(15間)/瓦数59,387枚
パンフより

かなり大きくて、正面から撮れませんでした・・・。今のデジカメなら広角なんちゃらで撮れるのかもしれないなぁ・・・
東本願寺も拝観料要らないので、立ち寄れますね
2008.03.13 (Thu)
3月の関西 京都『西本願寺』編
大阪からJR東海道・山陽本線新快速
に乗って京都へ
京都に滞在できるのは5時間程度。どのくらい周れるか?
京都駅から徒歩で『西本願寺』
ここではかなりカメラを構えている人が~~~。桃山文化の象徴と言う豪華絢爛なイメージ。

桃山文化の伏見城の遺構といわれ、豪華な装飾彫刻を全体に施した四脚門である。
建築細部に見られる彫刻は、これを丹念に眺めていると、日の暮れるのを忘れるといわれ、たとえて「日暮門(ひぐらしもん)」といわれている。
パンフより

『御影堂』が工事中なので、『阿弥陀堂門』から中に入ります。
中に入っていくと、大きな『阿弥陀堂』が見えてきます。

阿弥陀堂(総御堂)<重要文化財>
宝暦10年(1760)再建。東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートル。中央に本尊阿弥陀如来像、また、左余間は現在、仮御影堂とし、親鸞聖人の御真影を安置しています。パンフより

阿弥陀堂は中に入れるようになっています。阿弥陀堂に上がるところから見渡した『参拝会館』(左)と『経蔵』(右)
阿弥陀堂の中に入っていきます。(西本願寺は中の撮影がOKでした)
御影堂(ごえいどう)<重要文化財>
寛永13年(1636)建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートル。現在、平成23年の親鸞聖人750回大遠忌に向け、10年間にわたる大修復工事を行っております。パンフより

西本願寺は拝観料がいらないので、ちょっと立ち寄ってもいいカンジですねっっ