2008.03.14 (Fri)
3月の関西 奈良『唐招提寺』編
ここで最後、法隆寺から奈良交通バス
で唐招提寺へ。
http://www.toshodaiji.jp/index.html
ここは子供の時にも行きましたが、時間の関係で全部見ることが出来なかったお寺です
ここで拝観料を払って中に入ります。拝観料600円。拝観料を払うときに「金堂修理しているからね~」って言われてしまいました思わず「マジすか・・・」って言ってしまうオイラもどぉかと思うけど・・・。(修理しているのは外からも見られます)唐招提寺は観光バスもいなくて、ひっそりとした雰囲気。あまり人がいませんでした。雨が降っているせいもあるかも?

ここは奈良市五条町。奈良の郊外といった感じだが、都が奈良にあった1200年前は、平城京右京五条二坊にあたり、いわば首都の中心街であった。西紀759年(天平宝字3年)天武天皇の皇子新田部親王の旧邸地を賜ってここに唐招提寺が創建された。唐の国から来朝した鑑真和上の招提-み仏のもとに修行する人たちの場という意味を寺名として掲げる。別に建初律寺とも称するが、これは中国四分律の南山宗による戒律を軸として教学に励むわが国最初の律寺ということである。今も日本律宗総本山として仰がれている。
開山唐僧鑑真和上(過海大師)は大唐国揚州大明寺の高僧、さが聖武天皇の寵招に応え、授戒の師として来朝することになったが、754年(天平勝宝6年)東大寺に到着するまで12年間、前後5回に及ぶ難航海に失敗したにも拘らず、初志を曲げず、奈良の都に着いた時は両眼を失明していたほどである。かくて大仏殿の前に戒壇を設け、聖武・孝謙両帝をはじめ、わが国の多くの高僧たちに授戒した。すでに仏教国家の形態を整えていたわが国が、画竜点睛の実を挙げたのは、まさに大和上の功績である。このことは中学校の教科書にも出ている実績だが、ひとり仏教史の上だけでなく、ひろく天平文化に及ぼした影響は測り知れざるものがある。まことに日本の大功労者であった。
<後略>パンフより

残念ながら金堂が修理中・・・こんな姿に・・・

わが国現存最大の天平建築であり、天平金堂唯一の遺構として君臨するもの。その豊かな美しさ、「大寺のまろき柱の月かげを土に踏みつつものをこそ思へ」(会津八一)と詠わしめた大円柱の放列は遠くギリシャの神殿を想起させよう。本尊乾漆盧舎那仏、薬師如来、千手観音、梵釈二天、四天王など創建以来の天平のみ仏います内陣の厳粛さは、そこに盲いた大徳鑑真和上が今も礼拝瞑想中かと、われらも粛然たらざるを得ない。圧倒されそうな強烈な芸術性の発揮である。



金堂の前の通路の脇にあった、看板はなんとか文字を読むことが出来ます。

戒壇は石造三段の豪壮なもので、和上が東大寺に創めた戒壇院の土造のそれとしばしば対比されるのである。こちらは江戸末期の祝融に禍されて外構を失ったが、雨露に堪えて粛然たる厳格さはひしひしとわれらに迫り、おのずから襟を正さしめるであろう。このたび最上層にインド・サンチーを模した古塔を奉安し、周辺も整備して授戒場としての面目を一新した。



戒壇は、中に入れませんが、柵越しに見ることが出来ます。
戒壇から横を見ると、講堂が見えます。(本来は正面から見られるはずなのに、工事の関係で横からしか撮れませんでした)

金堂のうしろに続く講堂は、奈良仏教の上代寺院がいずれも学問寺の性格を濃厚にしていた関係上、講筵聴問の場であったが、この建物は和上の創立に際して特に宮廷から平城宮の東朝集殿を賜って移築したものであることに注目したい。平城宮跡百ヘクタールは今は一屋すら留めぬ草原と化したが、幸いに一棟ここに移築されたればこそ、もって当時の宮殿の方鱗をうかがうことができるのである。その遺重性はただ天平建築たるだけもおでない。堂内には本尊弥勒如来(鎌倉時代)、持国。増長二天(ともに奈良時代)を安置する。
パンフより

講堂の中には、説明の方がいたのですが、時間が読めなかったのとメモも持っていなかったので(全然観光客がいなかったし)頼まずに出てきてしまいました。かなりたくさんの仏像があったのですが、説明してもらえばよかったなオイラみたいなわからない子でも説明してくれるのかな・・・?
講堂を出たところに、芭蕉句碑があります。

さて、鑑真和上の御廟の西、境内のただずまいひとしお清寂ななかに宏大な殿宇が望まれるであろう。南都興福寺旧一乗院門跡の宮殿遺構を精密に復原移築された古建築で、平安貴族の邸宅とその生活様式をうかがうべき好箇の資料として希少価値きわめて高い。今では大和上の尊像を安置する御影堂とし、一山後学あげて宗祖のいますがごとくお仕え申している。和上の尊像は前述の如く6月6日開山忌当日を中心に(5日-7日)開扉される。
パンフより

6月5日~7日の間なら鑑真和上の像が見られるのかな???
さらに進んでいくと、『鑑真和上御廟』があります。こんな古い壁の道を通っていきます。壁の中に瓦のようなものが挟まっています。

やっとここに来ることが出来ましたっっ!!!ここに鑑真和上は眠っています・・・。
新宝蔵は別料金(100円)になります。今回は竹林寺忍性菩薩墓出土品などが展示されていました。発掘された仏像などなので、腕がなくなっていたりする不完全なものでしたが、仏像は実は、いくつかの木が組み合わさって作られているなど、構造がよく分かったような気がします。木造の仏像ばかりでした。
金堂の修理中なので、金堂の鴟尾(しび-名古屋城で言う金のしゃちほこみたいな部分)が展示されていました。東方が鎌倉時代、西方はなんと奈良時代のものです。間近に見ることが出来たのですが、奈良時代のものが残っているのは感動です。
新宝蔵のあたりでかなりどしゃぶりになってしまったので(このあと近鉄線の西ノ京駅まで歩く予定)あとは駆け足で・・・

東の2つの校倉。南が経蔵、北が宝蔵となっている。ともに遺存少ない天平校倉で、殊に経蔵はこの寺創始以前、新田部親王の邸宅があったころの遺構だから、756年成立の正倉院宝庫よりさらに古く、わが国現存最古の校倉として記憶されるべきである。
パンフより

・・・・宝蔵しか写真を撮っていません・・・。経蔵の方が大事だったんだ~~あわわわ遠目に撮ったのはあるんだけど・・・。
最後が駆け足になってしまったけど、唐招提寺を南大門から出て、目の前にあったポスト

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